自分の精神は崩壊してしまう。 ということは、私より完全な存在が存在するはずであり、私はそれに依存し、私の持つすべてはその完全なる存在から得たはずだ これがデカルトの考えだよ。 完全で無限なものの観念 「我」などの物質存在は、不完全であるとともに、有限です。
もっと「我思う故に我在り」は、私という存在はまったく疑わしく、存在しているのかすらも怪しまれるほどの偽であるが、私が存在しているかどうかを疑っている私は、ア・プリオリに存在していなければ疑えないのであって、疑っている私は存在を疑う私よりも前に存在していることになります。
もっと哲学ではこうした議論を 「独我論」と呼びます。 そうして、少しでも疑いのあるものを排除していったところ、今現在そのように疑っている自分の思考だけは排除できなかった。 だからこそ、カントもア・プリオリという言葉によって「空間」と「時間」の概念を疑いもしなかったのです。 思う我、すなわち魂という実体を現象としてみる見方は古くからあって、プラトンの『パイドン』におけるハルモニア説はその典型だと思います。 そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。 反省しています。
もっとA ベストアンサー デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^; 心身二元論については下の方の質問にも答えているので それを参考にして頂けるとありがたいのですが、 さらに「延長」について説明します。 よって、「我」という言葉は区別して使用されなければならず、仮に「存在する我に先んじる我」つまり実存を「私」とすると、 「コキトエルゴスム」は「存在に先んじる私が存在する我を思うときに、存在する我は存在する」となります。
もっと否やは無いさ」 「君も大概狂っているな。 今もそう。 これによって、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。 哲学者の中には「そもそも世界には『真理』などというものはない!」と主張する人もいます。
もっと自分が自分だと思っているものすら夢の人格だったとしても、それを夢かも知れないと疑う主体としての「私」だけは必ず存在する。 というわけでここから出発して真理を探究することにした。 「我思う故に我あり」に何か意外な盲点があるのかもしれない。 しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。 つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
もっと……私達は、シンジを世界に産み出したけれど、親としてはどこまでも失格。 このことをフッサールは『イデーン』の中で指摘しています。 ですから、本で読んだりしたものは全部大体駄目なのです。 例えば、中世哲学では 「空はなぜ青い?」 という問に対して 「神が青く創造したから」 が正解になります。 普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。
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